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韓国の海苔生産の歴史は古く、550年ほど前に書かれた「慶尚南道地理誌」に「海衣」と記した海苔がみやげ物として紹介されている。1478年に書かれた「東国興地勝覧」、近年では1935年、鄭文基著「朝鮮海苔」によると、光陽郡の蟾津江河口で1本ヒビの養殖が行なわれていたという記述がある。また、莞島郡では、「薬山面蔵龍里で、金有夢という人が、海岸の流木に海苔が着いているのを見て、海苔養殖を始めた」という言い伝えがあり、それ以来、海苔を「キム」というようになったという話が、韓国では一般的である。
しかし、日本が併合した明治43年の前後頃から、日本式の養殖が導入されている。また、昭和3年頃には、当時の朝鮮総督府水産試験場主任技師・富士川きよし氏、全羅南道水試技師・金子政之助氏が浮きヒビ養殖法を開発して生産量を飛躍的に伸ばした。この養殖法は、日本に逆輸入された。また、海苔や海苔網の冷凍保存技術も技師・倉掛武雄氏らとともに開発された。
ちなみに、富士川きよし氏は終戦後も昭和28年まで、駐留米軍の要請で韓国に残り海苔養殖の指導を行い帰国するが、広島大学教授として後進の指導に当たった。その後、福岡県に招聘され、福岡県水試有明海水産試験場の設立に努力し、有明海の海苔養殖の基礎を築いた。その愛弟子が、後年の有明海水産試験場場長の藤田孟男氏である。
生産は、養殖技術の発達で増えたが、日本の統治時代はそのほとんどが日本に送られ、国内消費はごく一部の人たちに限られていた。ところが、1945年の日本敗戦によって、日本へ送られなくなったため、国内需要の促進を図らなければならず、海苔養殖漁業者の苦難の時代が続いた。こうした、韓国海苔漁家の動きに対して、昭和22年から日本への輸出が始められたが、数量は限られており、国内需要を増やすための料理方法や商品開発が行なわれ、巻きすし、塩とゴマ油の味付け海苔などの普及で国内需要が伸びた。近年は、味付け海苔の原料として人気を呼んでいる岩海苔の生産が増えた。
現在の産地は、釜山の金海地区、莞島から仁川に至る漁場が主要産地になっている。現在の生産枚数は約70億枚で、その約60%が岩海苔といわれている。現在の産地別生産状況は別表(1)の通り。
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1995 |
1996 |
1997 |
1998 |
1999
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2000 |
全南
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479,870
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496,930
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469,980
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500,000
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688,200
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530,730
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全北
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68,650
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72,290
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53,420
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52,300
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58,390
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68,550
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忠南 |
77,520
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65,130
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39,560
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61,000
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83,840
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56,010
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京幾 |
8,550
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10,510
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7,650
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3,700
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3,990
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5,650
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釜山 |
27,480
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28,980
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30,960
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10,460
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33,430
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35,650
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江原 |
−
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−
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300
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300
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−
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−
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合計 |
662,070
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678,340
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601,870
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627,760
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867,850
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696,590
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中国の海苔生産はかなり古いが、「紫菜」(しさい)として、日本に入って来たのは唐隋の時代といわれるが、天然採取から栽培されるようになったのがいつ頃であるのか分からない。
しかし、中国では吸い物や麺類の食材として、壇紫菜が生産されている。これは、岩海苔の一種である。スサビノリの生産は近年のことであり、日本から養殖技術を導入して生産されたものである。
スサビノリで日本風に生産されているのは、中国の海苔産地は、山東省、江蘇省、浙江省で黄海に面した沿岸である。中でも、主な産地としては、日照市(山東省)、連雲港市、南通市、塩城市(いずれも江蘇省)などが挙げられる。各産地の生産規模を見ると、◇日照市・3,400畝(ムー)(2,264,400u・1ムーは666u)。◇連雲港市・23,000畝(15,318,000u)。◇塩城市・8,000畝(5,328,000u)。◇南通市・78,100畝(52,014,600u)で、主要産地の養殖漁場全体で、112,500畝(74,925,000u)に達する。この漁場に1ムー当たり5尺10間の海苔網約5枚分の網を張り込んでいるから、全体で562,500枚の網数になる。
海苔養殖漁業公司は、日照市・6社、連雲港市・39社、塩城市・10社、南通市・131社で主要産地全体では186社になる。全自動海苔製造機械は2003年12月現在で292台に上っており、日本から4社の機械241台が輸出され、6連から20連の最新型まである。その他は、韓国製・2台、中国製・49台である。このうち、40社は焼き海苔、味付け海苔の2次加工まで行っており、加工機械も61台が導入されている。
中国の生産状態は、1月から2月にかけては、水温が低く生産に結びつかない時期があり、生産効率はあまり良くない。しかし、生産枚数は別表のように、1998〜1999年から急速に伸びている。この頃から、日本ばかりでなく、台湾、韓国などの出資による、合弁企業が急速に増えた結果と見られている。しかし、2003年〜2004年にかけては、生産初期に雨量不足や高水温のため病害が発生したため、生産状況は良くなかったようだ。
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年 度 |
枚 数 |
年 度 |
枚 数 |
1991〜1992
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3億2,000
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1997〜1998
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4億6,228
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1992〜1993
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5億5,000
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1998〜1999
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10億4,201
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1993〜1994
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3億0,000
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1999〜2000
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10億6,887
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1994〜1995
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4億4,000
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2000〜2001
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9億5,181
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1995〜1996
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3億8,000
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2001〜2002
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15億7,216
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江蘇省を中心にした産地は、国内海苔生産量(日本式の海苔を条斑海苔という)の95%を占めるようになり、生産規模の拡大につれて地域の産業として注目されると同時に将来の発展を目指すための組織作りが重要視され、国として産業育成の施策を考えるようになっている。
1996年秋から、連雲港の雅瑪珂紫菜有限公司国際海苔入札所で、中国では始めての自由経済方式の海苔入札会が始まり地元海苔公司も参加するようになった。その結果、輸出も増え、国際商品として注目されるようになり、2002年秋には、輸出産業の施策に組み入れる商品として、製造と製品の衛生、製品向上を厳しくするように国の通達が出されている。
こうした国の方針が産地にも浸透し始めており、その方針をより確実に伝える組織として、2003年2月、「江蘇省海苔協会」を設立した。連雲港、南通両市の海苔養殖企業(有限公司)や食品企業、輸出企業、水産機械企業、研究機関など70数社が参集した組織で、中国でも民間企業が独自の自主的な組織を作ったのは珍しいといわれている。この組織は、それぞれの生産地に「海苔協会」の組織をつくり、江蘇省全体の海苔協会の上部組織として「江蘇省海苔協会」が設立された。この組織の名誉理事長には省の漁業局長などが就任し、理事長に省海洋水産研究所所長が就任した。日本企業からも2社が顧問として名を連ねている。この団体加盟海苔養殖企業の生産量は中国の約70%を占めるといわれている。
この協会では、「江蘇省海苔市場交易規則」を制定し、海苔製品の規格基準も作り連雲港、如東、海安の3地区で2004年1月から独自に入札会を開催することにした。
平成15年度は、全体に生産状態が思わしくなく、価格はかなり安かったといわれている。高値も1枚当り5円相当である。海苔質はやや赤芽であるが、焼き色の良いものが多い。あまり硬くなく、味も薄くないものが多い。焼海苔原料としては十分使えるもので、業務用としては、おにぎり、回転すしなどの上のクラスに十分使えるものが多い。
異物については、まだ十分とは言えない面もあるが、異物選別機、原藻異物除去機の導入も増え始めている。衛生管理の行き届いた製造工場も増えており、中国の生産者もかなり自信を持って海苔作りに取り組んでいる。
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1980年にワシントン州シアトル沖のピューゼット湾でスミス氏によって海苔養殖が行なわれた。
しかし、3年間程度で生産を諦め、カナダ国境のメーン州沿岸で生産されているようだ。
かつて、ハワイ島で海水による温度差発電で汲み上げられる低温度海水を利用したプール式の海苔養殖が行なわれたが、今はヒジキなどの養殖が行なわれているようだ。
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1986年頃から海苔養殖についての研究が始まり、海苔養殖企業の「ニュージーランド ノリ プロダクツ リミテッド」が設立され、1990年3月から本格的な海苔養殖に取り組んだ。
漁場は、ニュージーランド南島の南端にあるインバーカーゲル市(人口約5万人)に面したブラフハーバーである。水深4〜5メートルで、干満差は約2メートル、水温は最高時16℃、最低時8℃という漁場である。
海苔の生産は3月から始って8月頃まで続くということである。日本とはシーズンが逆になる。初年度は、30万枚の生産であったが、100万枚の国内需要は十分あり、隣国のオーストラリアへの輸出も行なって、生産数量を増加している。 |
イギリスの南部地区にある南ウェールズ・ガワー半島が産地である。南ウェールズでは、海岸に生えているスサビ海苔を摘み取って、原藻をよく洗って、そのまま煮沸したペースト状の海苔が食品として市場で販売されている。
イギリスでも、このウェールズ地方だけの食品といわれるが、テレビ番組に出演した、C・W・ニコルさんの話では、快晴の日が少ない土地柄で、乾燥して保管する習慣が見られないことが大きな要因のようである。
ちなみに、海苔の種子が貝殻の中で夏を越し、秋になると果胞子を出して海の中に泳ぎだすことを発見したのは、イギリスの海藻学者、キャサリン・メリー・ドゥルー女史である。ドゥルー女史によって海苔のライフサイクルが発見されたことによって、日本で人工採苗技術が開発され、海苔養殖漁業が発展したのである。
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