東京の昧といえぱ、すしに天ぷら、そばと数々あるが、その名わき役としての海苔(のり)の存在を忘れるわけにはいかない。東京湾の海苔は、江戸時代から「浅草海苔」の名で全国に知られていたが、かつて浅草海苔の最大の生産地が大田区の大森で、大森が「海苔養殖発祥の地」と言われていることはあまり知られていない。大森で採れた海苔がなぜ”浅草”なのか? ルーツは諸説あるが、同区立郷土博物館の藤塚悦司さんによれば「大森などで養殖された海苔が主に浅草寺境内で販売され、浅草海苔の名称が全国に広まったというのが最有カ説」とか。なかでも、江戸後期に長野県諏訪地方からの出稼ぎの人らを通して大森の海苔養殖技術が全國に広まったことは確かだという。東京五輪を目前に控えた昭和38年、東京湾の埋め立てに伴い、沿岸漁師らが漁業権を放棄。最盛期には約2000戸もの海苔生産者が暮らした大森でも海苔が採れなくなった。
だが、大森では現在も約70軒もの海苔間屋が軒を連ね、11―4月のシーズンには各地の漁場から、全国の15%にあたる約15億枚の海苔が集まる。ここでは全国で唯一産地の漁連が関与せず問屋組合による入札だけで価格が決まる。大森以外では各地の漁連が、まず海苔の等級を付けたうえで、入札が行われる。
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